空き地


 

こないだ、とある人と話していて、「空き地って、人はすぐに畑できるかな?とか、イベントしようだとかって用途や目的を探しがちだけれど、別にさ、空き地は空き地でいいと思うねん。」

 

 

って言ってはって、なるほどな、そうやなぁと思ったんです。

 

 

 

僕らはすぐにあらゆる言動や興味関心に対して「目的」や「意義」を求めたり結び付けたりしがちだけれど、それによって失われているものも確かにある。

 

 

 

「目的と手段は違う」とか、「Whyを追求する」とか、世間でも言われがちなことなんだけれど、目的でも手段でもない、何故かと問われても困っちゃうようなことも世の中にはたくさんあっていい。

 

 

 

 

 

小学校の10分休憩の時、みんなで黒板にチョークでだーっと落書きするわけです。

きゃあきゃあ言いながら、とにかく描きまくる。

 

 

ほんで残り1分でチャイムが鳴るよってなったら、だーっと消すんです。

先生に見つからないように、さっさと消しちゃう。

 

 

先生が教室に入ってきたら、落書きなんてなかったかのように元に戻って。

描きまくっていた子たちも、5分前が嘘のようにノート広げて。

さっき何を描いたかなんて忘れちゃってて。

 

 

 

もう、はじめから何もなかったかのように。

 

 

 

 

 

 

ついつい、完成を写真に撮ろうとか、描いていくのを動画配信しようとか、テーマを決めようだとか、社会風刺を入れようだとか、描くからには何かしらに繋がったり、意味があったりっていうのを考えがちですけどね。

 

 

 

刹那的というにも程遠い、「そこに黒板とチョークと暇があったから」っていう条件反射のような感覚はどこへ行ってしまったんだろうか。

 

 

 

今こうやってテキストを埋めている間も、この話をどう纏めようか、どう意味付けようか、読んだ人に何を伝えようか、なんて考えてるようじゃ「空き地」とは呼べないわけです。