たらいの水の話


 

商売の話をする時によく例える、たらいの水。

 

 

たらいの水を集めようと手前に必死にかき集めるよりも、静かに丁寧に水を送り出してやると、たらいの縁を伝って自分の元に返ってくるよって話。

 

 

ギブとかギフトとか贈与経済だとか言うけど、こういうのは摂理というか、長い歴史の統計のような気がする。

 

「こうやってやったほうがうまくいったよ!」ってやつね。

 

ある時に人は気づくんだろうな。

 

 

 

でも現代に置き換えてみると、その「たらい」が大きくなりすぎて縁が見えなくなっていたり、送り出した水が揺れに揺れて誰の水かわかりにくくなってしまっているんだろうなぁと思う。

 

この場合、水=価値、たらい=経済圏、ようなものだとして。

 

 

 

 

たとえば、島のような場所だと、自分の働きは「彼の仕事」として記名性を保ったまま島の中を流通して、また自分の元へ返ってくるんだと思うんですよね。

 

 

「吉野さんに作ってもらった服」とか「屋根の修理は峯田さん」みたいに。

 

そうなるとどうやったって、名指しで返ってきますよね。

「吉野さん、峯田さん、ありがとう」って。

 

 

 

でも広い経済圏(社会)だと、通貨を使って流通をスムーズにした結果、自分の働きは「誰かの仕事」になってしまって、匿名で伝わっていくわけです。

通貨を使うことによって即時等価交換できるんだけれど、お金は匿名なので「自分の仕事」としては流通しなくなる。

 

 

そうなってくると、だだっ広いたらいの中で匿名の水を送ったところで、なかなか自分のもとには返ってこない。

 

いま僕が座っているイケアのイスは誰が作ったか知らないし、「ありがとう、イケア!」くらいにしかならないわけです。

 

 

 

これが記名性と匿名性の違いね。

 

 

ブランドとコモディティと言えなくもないけれど、よくよく考えると小さな経済圏では誰もがブランドですよね。

 

 

コモディティ化するからブランディングしなくちゃいけないってやつ。

 

 

 

 

 

自分の送った水が自分の元に返ってきやすくするには。

 

「記名性(ブランド)を保ったまま価値(水)が流通する範囲の経済圏(たらい)の中で、静かに丁寧に手を動かして自分の仕事を送り出す」ってことじゃないですかねぇ。

 

 

 

その「たらい」を、地域や経済やコミュニティみたいに、いくつかの種類持ち合わせつつ掛け合わせていくのが、小さくうまく生きていくことのような気がする。

 

 

大きな大きなひとつのたらい、よりもね。