何故に言葉を綴るのか


 

このブログもそうだし、PEACOCK64のブログもほぼ毎週書いている。

喫茶ピーコックのスタッフ通達や商店会の回覧板、SNSの投稿、細々したものも含めると一週間の間に結構な量の文章を書いていることになる。

 

 

もともと文章を書くのが好きだし、活字を読むのも好きなので、全くと言っていいほど苦にならないし、後々読み返して「いやぁ、良い文章書くなぁ。」と自画自賛して喜んだりもしている。

 

SNSより前は他のブログで書いていたし、そのもっと前は自分のBBS(掲示板)を持っていて、そこに徒然と書き綴っていた。

 

コメントのやり取りを楽しんだり、ただ日記を書くんじゃなくて、あれこれと思うところを連々と書いている。

 

もう、20年くらい書いているんじゃないだろうか。

 

 

 

正直なところ、書いたとて収入にはならない。

そういう文書ではないし、売れる文章を書こうという気でもない。

 

食うため、生きるために書いているわけではないし、別に日常生活で必要に迫られて書いているわけでもない。

 

 

毎日を普通に暮らしていこうと思えば、ある程度の定型文だけで僕らは暮らしていける。

感情を伝えたり、意思表示・意思疎通するにも、そこそこのセリフで事足りるはずだ。

 

シンプルな言葉で、大体は伝わるのである。

 

 

 

 

じゃあなぜ、言葉を綴るのか。

 

こんな回りくどい、あーでもないこーでもないと捏ね繰り回した言葉を繋げて、何を言おうというのか。

 

 

 

この社会に生まれて、生きていくのに「ことば」はいらない。

「セリフ」で生きていけるのである。

 

教えてもらったように適時適正、言葉を選べば差し支えない。

 

 

 

 

 

でも僕は、「差し支えたい」のだと思う。

セリフを選べば済むものを、敢えて言葉に置き換えて。

 

 

 

自分の気持ちをできるだけ忠実に表現したい。

間や躊躇いやリズムも、言葉にしたい。

 

何てことない毎日にいちいち差し支えていって、心を震わせたり踊らせたりしたい。

 

 

 

ひとりで生きていくのに、言葉はいらない。

でも、関わり合っていくには、言葉が必要だ。

 

 

それぞれがそれぞれに差し支えていって、そこに関係性が生まれる。

 

 

 

まったく面倒なことを手間隙かけてやっているのである。