本当の自分


 

「うえしばさんって、素ってあるんですか?」って聞かれたんです。

 

 

で、あらためて自分のカテゴリを整理してみると、単なる厄年おじさんだったり、父親だったり、店長だったり、店主だったり、商店会長だとか、PEACOCK64のうえしばさんだったり、亜論茶論とか一生懸命を笑えとか、まぁいろいろとありまして。

 

 

よく一般的にいう「仮面をつける」とか「猫を被る」とか「オンオフ使い分ける」みたいなことって明確なスイッチの切り替えがあるわけじゃないけれど、その時々の役割だったり、求められている自分によってすり替わっているんだと思うんですよね。

 

 

 

それに関しては、平野啓一郎さんが言っている「分人主義」という考え方が僕はしっくりくるんだけれど、わかりやすく言うと「SNSのように自分の中に複数のアカウントがあって、その関係性によって使い分けて(ログインして)いる」ってことなんですね。

 

なので、極端に身構えている時は別として、「素の自分」を意識することってほとんどないような気がします。

 

 

「気楽でいられる」とか「自分らしくいられる」みたいなことが「素」だとしても、僕は常々「自分らしく気楽に生きている」と思うので、それが失われるような環境にはまず身を置きません。

 

だんだん問答のようになってきましたね。笑

 

 

 

 

文章を書くことでいうと、この「一生懸命を笑え」では時事ネタや時系列、個人の名前や特定の人にしかわからない固有名詞はあまり使わないようにしています。あと、写真やURLリンクなども使っていません。

 

どのページを読んでも読み切れて、旬を過ぎてしまうようなことがないようにと思って書いているので、どちらかと言えば僕の考えている抽象的なことや普遍的なこと、内省的な文章が多いです。

 

 

一方で本家「PEACOCK64のブログ」は豊中での出来事や僕自身の日々のこと、周囲の人やイベントの紹介も多いし、写真付きでリンクもたくさん貼ります。ふざけたことも書きます。笑

よりブログらしい使い方をしてるんですよね。

 

 

オンラインサロン「亜論茶論」は特定少数に向けて書いているので、より個人的で話しかけるような印象で書いています。

連絡網というか、メルマガのような感覚で毎日書いています。

 

 

 

とはいえ「表現」というか、「向こう側から見た自分」を常々意識していることがあるので、その反対である「相手を意識していないうえしば」のことを言われているのかもしれません。

 

 

「社会との接点がない状態」とでもいうのかな。

 

 

でもそれを「素」とするなら「あるに決まってるやん」となるし、それを見せてよと言われても「見せる」ということ自体が社会との接点になるので、極論「素を見せる」というのは矛盾してしまいますよね。

 

「隠しカメラを自室に仕掛けられる」みたいなことが起これば実現するかもだけれど、そこまでして見るようなものではないと思います。

気を抜いた厄年のおじさんの素に、何の得もないです。笑

 

 

 

あと、「普段は見せない意外な一面」とか「ギャップ」みたいなものがそうなのかもしれません。

 

これも「器用貧乏」だとか「何でもあり」みたいに思われることが多いので、「はいはいみなさん、今の僕が素の状態のうえしばですよ~」と言ったところで誰も信用しない気がします。

 

「コイツまたなにか、企んでるな、、、。」みたいな。笑

 

 

酔っぱらってムチャなことするわけでもないし、極端なポンコツでもないので「器用にスマートに生きてるなー」って印象を持たれがちなんですね。

でも人としてチャーミングなところって、「不器用さ」だったり「手のかかるところ」だったりします。

 

 

 

世の中が便利になって、それぞれが工夫をしたり勉強したりで「スマートに器用に失敗なく生きられる」状態が生まれたことで、「不器用で手がかかる愛されキャラ」に価値が生まれるっていう時代なんですね。

 

 

 

こういう「達観してる」みたいなところに違和感があるんだろうな。

 

 

 

 

 

でも全然そんなことないのになぁ。

本当の僕なんて。

 

 

(とまたここではぐらかしておく。)