喫茶店しながら地元で活動(遊んでるだけ)していると、よく人から「好きなことを仕事にしてて良いですねぇ」と言われるんです。
でもこれって少しニュアンスが違って。
そもそも僕は「生まれたところが喫茶店だった」っていうとこだし、コーヒーや喫茶店が大好きで家業を継いだわけでもないんです。
コーヒー好きな人って僕なんかより大好きだし、喫茶店もマニアと呼ばれるような人がたくさんいます。
僕はどちらかと言えば人と話すことが好きだし、何かを振る舞ったり、もてなすことが好きだったりするのでそれでやれている感じです。
なので、「好きが高じて」ではなく「性に合っていた」ってほうがしっくりくるかな。
そしてもう一つ、自分が「好き」なだけでは仕事にはなりません。
仕事や職業にしようと思えば相手から対価を頂かなくちゃいけないので、その相手が「価値を感じる」ことが必要になってきます。
・自分の「好き」を使って、相手の「好き」を生み出す
っていうくらいじゃないと成立しないですよね。
そしてこれからの「好きを仕事に」時代においては、もれなくその価値は画一化してきます。
「好き」で仕事をしている人がその様子をネットで発信するので、みんなそれを真似したり模したりした結果、同じようなものがたくさん生まれて、その価値は低下します。
「丁寧に1杯づつ淹れたハンドドリップコーヒー」なんてすごくわかりやすいですよね。
もはやそれは特別なことではなく、「誰にでも再現できる技能」になってしまいました。
そして画一化したその価値に希少性を持たせるために物語を重ねたりする「ストーリーブランディング」でさえ、N字曲線の法則とか言われてそれも鉄板化しています。
で、これからの世界で残っていこうと思えば、「辞めないこと」と「価値転換を起こすこと」だと思っていて。
それにはまず、辞めるとか辞めないとかそんな選択を自分に迫る気持ちも起こらないくらいに続けていられる「好きなこと」に、損得なしで向き合える環境を作ること。
そしてその「機能」で差別化を図るのではなく、「意味」を語ることができるかどうか。
物語を語るのではなく、その物語から得た「哲学」を語ることができるかの話です。
今回は2019年10月25日に会員制コミュニティ「亜論茶論」に投稿した記事、「世界は絵皿になっていく」を公開します。
少し長いですが、不特定多数に向けた高機能の価値が飽和した時代の中で、特定少数にだけ理解される意味や意義モデルを解説してみました。
それでは、どうぞ。
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― 亜論online茶論 うえしば えいじ
【 #世界は絵皿になっていく 】
最近読んでいる「NEWTYPE」って本の影響もあって、これから先どうなるんやろう?ってとこに興味津々です。
そこでちょっと「お皿」に例えてみましょう。
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お皿といえば「食べ物を乗せるための物」ですよね。それが「機能」です。
例えばジャングルの奥地みたいな民族だとバナナの葉っぱとかに食べ物置いて食べたり分けたりしてるイメージありますよね。
あっこから「お皿」が生まれたわけです。
誰かが粘土を見つけてきて、焼いたら固くなるし、これちょうどええやん!!って感じでしょうか。土器も同じだと思うんだけど。
バナナ熱くて持たれへん!!!みたいなストレスでもあったんですかねぇ。
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なので、その「お皿」が必要枚数に達するまでは(生活を賄うまでは)、せっせと作り続けるわけです。好き嫌い言ってるヒマはありません。
快適便利を生み出す「お仕事」なのです。
そして、どうやったら早く、たくさん、丈夫に作れるかを試行錯誤したり、仲間内でその工程を共有していったのかもしれません。
しまいには「名人」みたいな人も出てきて、まぁそれが職人なんだろうけど、どんどん研ぎ澄まされていくわけです。
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そしてついに、「オッケー、もう皿は大丈夫だ!」というところまできます。
全国誰でも早くたくさん丈夫に作れるレシピを知ることができるし、何よりもそういう機械が開発され安価で手に入るようになるんですね。
職人が機械に追い越される瞬間です。
「機能」の名人芸は機械のお手のもの。
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そうなってくると嫌々お皿を焼いていた人はその仕事を辞めてしまいます。単価が安くなり、価値は飽和し、お給料も必要性も感じにくくなるからです。
当然、手が足りなくなるので機械化が進みます。オートメーションで必要枚数が生産され、そのコストはどんどん低くなり、いつでも手に入る状態になります。
「便利な世の中になったなぁ。」
お皿がないから食べ物を乗せたり分けたりできない!なんてストレスから解放されたわけです。
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でも中には「お皿を焼く(作る)」というそのものが好きな人だっているはずです。
その人はもうみんなが必要としていない(足りている)のに今日もお皿を焼きます。
周りからは「無意味だ」とか散々言われます。
誰も買ってくれないので収入にもなりません。
ほとんど「趣味」の世界です。
そこで、その人は考えました。
「お皿に絵を描いて立てて飾ってみよう!」
そしてそのお皿には自分の美学や哲学を存分に詰め込みました。食べ物を乗せるわけではないので、逆に自由に描くことができます。
どうせ売れないし、思いっきりやっちゃえ!と。
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そうやって好き勝手にやってると、近所の人が作品を見て「ちょっと部屋に飾りたいな」なんて言ってくれました。
好き勝手にやりたいし、ひとりで作れる数も限界があるので、「食べるお皿」よりもだいぶ高い価格を設定しましたが、そもそも部屋にお皿を飾りたいなんて人は余裕のある人なので、絵皿はすぐに売れました。
「アイツは好き勝手にやって生きてる」と周りからは言われますが、それは逆で「好き勝手にやってるから生きていける」んですね。
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例えとしてわかりにくかったですかね?笑
「不快と不便」が課題だった時代には、それを解消する「機能」に価値がありました。
でもその「機能」が汎用され共有されコストが下がってくると価値は失われていきます。
その量や質も「当たり前」になり、ハズレがなくなり、ほとんどの場面で補完されるわけです。
「便利な世の中になったなぁ」ってやつです。
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そこで一旦、それ以上産み続けることが「無意味」になってきます。「もうすでにある」のに、まだ作るからです。
でも、お皿の例でいうところの「立てて飾る」っていう価値転換が起これば話はまた変わってきます。「別の意味を持たせた」わけですね。
もうひとつは「無意味だと言われながらも生み出し続けるメンタル(=好きだからやってる)」があること。
ここが今は過渡期で、「わざと壊れやすく作って再生産する」とか「大量に作って破棄してまた作る」とかそういうことでもって「仕事がなくならないように」延命措置しているような状況です。(もちろん全てがそうだとは思いませんが)
本当に「便利な世の中になった」のなら苦労はないんだけれど、「不便」を無くしてしまうと「機能の価値」が消失してしまうので、わざわざ「不便」を再生産してるんですよね。
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とはいえ時代は進みます。
・無意味だと言われようが続けられる人
・そこに意味付けができる人
・その意味を見出す人
市場はこっちに移っていきます。
・こんなん誰が着るねん?みたいな服作る人
・その服について美学を語れる人
・それに共感や陶酔できる人
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「機能」と「相対価値」のデザインから、「意味」と「絶対価値」のアートの時代へ。
こないだFacebookで見たウィルスミスの「人が望むものを作るのは危険、自分が伝えたいことを伝えよう」みたいな話はこれにも当てはまるなぁと思いました。(^^)
これ書きながら自己理解を深めている感じなので、しばらくはこんなネタが続くかも。