残響


 

こないだとある町の商店街を歩いてたんだけど、アーケードから少し外れた薄暗い路地に入るとその奥が小さな「市場」だったんですね。

 

日曜日だったし今も商売されているのかわからなかったんだけど、現役で明るいアーケードよりもその市場のほうが「人の息吹」を感じたんです。

 

 

それこそ、無理やり増築した2階部分とか、手書きで書いた表札とか、ぐるぐる巻きの配管とか、「人が生きた証拠」のようなものがあちこちにあって。

 

しかもそれがほとんど、「昭和」の話なんですよね。

平成も30年あったにも関わらず、昭和がまだ色濃く残っているっていうのは、いかに昭和が「勢いのあった時代だったか」を物語ってると思います。

 

薄暗く静まり返った日曜日の小さな市場を歩きながら、その力強い残響に浸っていました。

 

 

 

 

よく「名を残す」だとか「爪痕を残す」とか「伝説作る」みたいなこと言われるけど、「残ってもなお、響く」ってやっぱりすごいことだなぁと思う。

 

僕らはついつい「今、何をやってる」、「今、何が起こっている」っていう、目の前のことや着手していることについて考えがちだけれど、例えば「自分がいなくなってもなお残る、響く」ということまでは届いていない気がする。

 

音楽(楽器)の話で言うところの、アタックばかりに目が行きがちで、サスティーンが意識できていない。

 

でもこの、残響や余韻をコントロールする(意識する)ことができるとまた表現の幅はぐっと広がる。

 

 

 

うなく言えないかもだけど、「あの人はすごい」よりも「あの人はすごかった」のほうが厚みがある気がするんです。

 

 

自分がいなくなっても、その場を離れても、そこに居続けることができる。

 

残響が残響として、その場に居る。

 

 

 

まぁ、それこそブッダとかキリストとかその極みみたいなもんだけど。笑

 

でも、山本KID徳郁とかアベフトシとか佐藤伸治なんて、僕にとってはやっぱり凄まじい残響(憧れ)ですけどね。

 

 

 

「目」で見えてる景色なんてさ、現実のほんの一部でしかないわけですよ。