このところ更新が全然できていなかった。
ま、それだけあわただしくしていたのだし、これもありがたい事だとしておこう。
少し時間ができたので、いま思うことをつらつらと書いてみる。
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最近は店にいることが多いのだけど、友達がちょくちょくやって来てくれるので退屈はしていない。
昔は市内を縦横無尽に走り回っていたけど、「居処がある」というのは便利だなと思う。
数年前から「アーバン僧侶」なるものを唱え続けているのだけど、なんだかそんな気がしてきた。
喫茶ピーコックがお寺のような存在で、そこに常駐している(つまり、住職)のが僕だっていう。
あるいは、「両津勘吉的」だとも言える。
「あそこにいけば、あの人が居る」というのは、リモートや在宅で社会が回っていく中ではまた別の価値を生むのではないだろうか。
「聖地巡礼」のような世界観がきっと強くなる。
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どうやらここへきて、「文句を言う人」と「前に進む人」に分かれてきた。
ものすごく感覚的な話だけれど、梅雨が明けたかな?というあたりから潮目が少し変わったように思う。
うまく言葉にできないけれど、そんな気がする。
「音響や選曲に文句を言い続けて一向に踊らない人」と「それはそれとしてなんとなくリズムに乗りだした人」みたいなもんかな。
余計にわかりにくいか。
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ようは、「虫の眼・鳥の眼・魚の眼」の使い分けなんだろうけれど、ここが混乱していたり自覚していなかったりすると具合が悪い。
特に現状だと虫の眼に寄りすぎてしまうから、見失いがち。(なんやねんその例え、という人は検索してみてください)
近くを見ている時には同時に、「遠くを見れていない、流れを読めていない」と自覚することが大事だし、視点をくるくる切り替えて全体的に捉えることが良いのだと思う。
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最近は本もあまり読めていないし、ネットやSNSを流し読みしたりもできていない。
でもこの「定点に立つ」というのは思いの外わかりやすいし、物事がよく見える。
変化の時代と言われているけれど、闇雲に変化していては原点や軸に立ち返ることもできないし、型をも忘れてしまう。
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「定点・軸・型」
これを武器に、変化の時代を切り開いていこう。