僕らはついつい月給とか年収とか資産とか「獲得したもの」でその価値を計りがちだけれど、「未決済の価値」を含めて考えると、価格=価値ではないわけです。
ようするに「贈った価値≠獲得した価格」なんですね。
で、うまくいくのは「贈った価値>獲得した価格」。
自分が贈った未決済の価値が社会に漂っている状態です。
ただ、指標として「贈った価値」を可視化できるものが少ないので、獲得した価値を表す「価格」に目が行きがちなんだけれど。
もしこれが「年収(どれだけ得たか)」ではなく、「年支(どれだけ贈ったか)」がわかれば世界もまた変わるのかもしれませんね。
(※この場合は金銭的な支出ではなく、自分の働きかけによって生まれた相対価値の総支出量です)
現在のお金である不換紙幣の始まりは1942年。
まだ100年も経っていないものなんです。
その前には兌換紙幣(金本位制度)があり、布や米があって、貝や石があって、物々交換があって…といろいろ歴史はあるんだけれど。
でも歴史や価値の交換ツールが変わってもずっと変わらないのが「未決済の価値」なんですよね。
わかりやすく言うと、恩・義理・徳。
これが返報性の原理や互酬によって世の中をぐるぐると回っているわけで。
「ありがたいなぁ、嬉しいなぁ。これはきちんとお返ししなきゃ。」っていうやつです。
ここでちょっと思ったのが。
例えば狩猟採集の時代に食べ物や自然の道具(木や石など)を得た場合、お返しする対象が「自然」や「大地」になりますよね。
感謝の対象が「地球」になるわけです。
当然、互酬に基づいて、その価値に対してのお返しを繰り返します。
でも、ネットショップでコーヒー豆を買ったときに、その返報として「ブラジルの大地よ、ありがとう!」とはなりにくいわけです。
やっぱりショップやそのスタッフさんに対して返報が働きますよね。
なんなら配達の人にいくのかもしれない。
もちろん遡って、ブラジルの農園の生産者さんは大地に感謝してると思います。
でも僕らは間接的すぎてそこにまで意識が及ばないわけです。
(もちろん意識している人もいます)
これが農産物だとまだ想像の範疇だけど、証券や情報商材、権利や金融になるとかけ離れすぎていて、地球に対して返報や恩・義理・徳を感じることはかなり難しくなってきます。
価値の出処が「地球(自然)」ではなくなっているので。
でもそれって。
環境破壊や環境保全を考える時に、その人が「自然からの恩恵を直に感じることができる体験がどれだけあるか」によって返報の働きは変わってくるし、また「自然に対して恩や義理を感じることができる感覚が備わっているか」は教育の分野にまで及んでいると思うんです。
「大地の恵み」や「自然に感謝」っていうのがキャッチコピーや標語ではなく、自分の体験から来る素直な感覚じゃないと「お返し」は生まれないのかもしれません。
僕らの生活に日々ついて回る「収支」。
これを価格(お金)ではなく、価値(働き)でもってバランスを取っていく時代です。
そしてその収支を、自然に対して向けていく。
もちろん、支出(価値)>収入(価格)で。
100年にも満たない道具に振り回されるってねぇ。
過去・現在・未来。
生産・加工・消費。
結が回る世界。
時代を作っていきましょう。