ギブアンド俳句


 

さて。

10年後とは言わず、もっと早くにこうなるんかなーと思うんですよね。

というか、早くこうなってほしい。

 

 

 

僕はよく「恩送り・恩返し」って話をするんだけれど、それは対面2者間じゃなくって、巡り巡ってっていう方が良いなと思っていて。

 

どうしても2者間だと「交換」ぽくなってしまいがちなんですよね。

Aを渡すとBが返ってくる、みたいな。

 

でも何かしらの価値を相手に贈る(ギブ)とき、「贈りたいと思える相手がいるその環境」そのものに価値があるなと思うんです。

 

 

例えば、「無償で贈る」のが一番スムーズにいく場合って、「いずれ自分も無償で贈られるという気がしてる」っていうのがあると思うんですね。

 

「気がしてる」っていうのがどういうことなのかって、「贈り合う関係性の中に自分もいる」っていう感覚なんじゃないかなぁと。

 

贈った相手から何かを得ようじゃなくって、巡り巡って自分もそうなるんだろうなっていう確かな感覚。

 

 

 

目の前にお腹を空かせた人がいて、自分が持っている1個しかないおにぎりをあげたとします。

でも、その行為に心打たれた人が「俺の分を半分あげるよ!」って言ってくれて、それが3人いたらおにぎりは1個半にもなるじゃないですか。

それじゃ貰いすぎてるので、またお腹空かせた人を探す。

同じことが繰り返されていくと、心打たれた人が「おにぎりはないけどお茶で!」みたいなことになったり「自家製味噌をどうぞ」みたいことになって、何となくみんながいい感じになるわけです。

はじめにおにぎりを贈った人の中には「巡り巡る中にいる」っていう感覚があるんだと思うんです。

だから「全部」あげることができたんですよね。

 

 

そこにはやっぱり、「ギブ」のスイッチを始めに押した人がいて。

そこからぐわーっとギブが広がっていく気がするんです。

 

おにぎりを全部あげることができるその信頼や支援の輪を意識できる人が周りにたくさんいれば、そう難しい話ではないのかなぁと。

 

 

 

僕らの原資は「時間」なので、手に入れることに時間を使うか、贈り届けることに時間を使うのか、その狭間が今なんじゃないかと思うわけなんです。

 

物がある程度行き渡った時代には、「手に入れる」ことよりも「贈り届ける」ことのほうに価値が移動するんじゃないかというお話。

 

 

 

そして自分の考えや感覚、ギブの話やなんかを形にして発信したい。

その情景や自分の感想を言葉にして伝えたい。

自己表現(俳句)としてまとめたい。

 

ブログやSNSもそうだけど、「書き留める×発信(表現)」はこれからも続くだろうなぁと。

 

 

「こないだの日曜日は近くの農家さんの出荷のお手伝いに行って、お土産に野菜をたくさんいただきましたー!」

 

みたいな投稿は、タイトルにある「ギブアンド俳句」な暮らし方の典型だと思う。

そしてまた、それに共感した人たちが贈りあって、巡り巡っていくわけです。

 

 

とにかくね、「ギブ」と「俳句」です。

 

ギブアンド俳句。

 

 

 

ようするに、承認と自己実現の話なんだけど。