閉じていく世界


 

いつ頃からですかね、「グローバル」って言われだしたの。

 

ついつい僕らは英会話だとか世界的企業だとか「日本を飛び出していくこと」のように考えがちだけど、本来はそういう意味ではなくって。

 

 

国とか大陸とかそういった既存の文化経済生活圏を越えていくこと(地球主義)というような意味なんだそうですね。

もちろん、その使われ方(場面)によって解釈は違ってくるんだろうけれど。

 

大阪!とか、日本!とか、アジア!とか、そういう括りではなく、インターネットやLCCによって距離や言語の壁はどんどん溶けていきますよってこと。

 

 

世界に出りゃいいって話じゃないんです。

日本にいたってグローバルなんです。

考えかたや見かたの話です。

 

 

 

そんなわけで僕らの生きる世界は「地球全体」になりました。

本当の意味で「おら、この村から出たことねぇんだ」みたいな人はいなくなったわけです。

ネット以前だとテレビやラジオなどの電波、もっと言うと自動車や馬車、さらに言えば「車輪」です。

 

車輪が発明されなければ、物理的にも価値の移動はほぼ起こらず、村や群れの単位で生活をしていたことでしょう。

 

 

 

 

そして世界を広げたもう一つの道具、「通貨」。

 

人が生み出す価値を全国共通の「円」という尺度で計る(価格をつける)ことで速やかな交換が可能となりました。

物々交換や恩送りのような「関係性(信用)」がベースにある価値交換ではなく、「円」自体に信用が付与されています。

 

わかりやすく言えば、「お金を使えば、知らない人からであっても価値を手に入れることができる」んです。

コンビニで物が買えるのも、知らない人に髪を切ってもらえるのも、「通貨の機能」と言えます。

 

 

 

こうやって、「インターネット×通貨」で鬼のような価値交換が起こり続け、僕らの社会は成長し、生存を脅かすようなことは起こりにくくなり、またそのコスト(時間や労力)も格段に減りました。

世界規模やピンポイントで見るともちろん格差や届いていない場所もありますが、今こうやって文章を書いている僕が、明日の飲み水を調達するために早起きして何キロも歩くというようなことはないわけです。

天災や戦争、事件事故病気などは別ですが、「生存コスト」は激減したのです。

 

 

「生きにくかった(生存コストが高かった)時代」にはあらゆる価値が生み出されていきました。

生きるため、より生きやすくなるために「生活の向上」や「生存コストの削減」を目標に全員で生産し、どんどん分配していく。

お金もぐるぐる回りました。

 

それがずいぶんと長い間続きましたが、インフラも整い、生存コストは下がりだし、「成長社会から成熟社会へ」なんてことが言われ始めてきたのです。

 

 

生存していくのにコスト(時間や労力)がかからないのに、前時代と同じように生産をしていくと当然、あらゆる価値は「余って」きます。

 

 

「価値が余っている(事足りている)」ということは、お金も余ってきます。

手に入れなくても、使わなくても、生きていけるからです。

「余る」ということは、「価値が下がる」ということですよね。

 

 

でも、お金は回さなくちゃいけないわけです。

再分配を促すためにも、価値を下げないようにしながら回す。

再生産、再消費、再分配を空中でやってる感じです。

 

結果、壊れやすいものを作ったり、捨ててまた作ったり、消費を煽る広告で回そうとします。

もっと言うと「生存に関わる必需品」でさえも、捨てて作ってを繰り返しています。

 

 

 

そこでふと思うわけです。

「僕らは限りある時間を使って、何を生産して、何を消費しているんだろう?」

 

 

 

 

快適と幸福は似て非なるもの。

僕らがお金で買っているのは快適便利であって幸福や自由ではないのです。

 

 

人間はだいたい同じような形や機能を持っているので、「快適便利」を追求する時代には答えがありました。

早く移動できたほうが良かったし、寒さは凌げたほうが良かったわけです。

快適便利が極まって、平均寿命も伸びました。

 

 

でも、幸福と自由は「何を以てそれと見なすか」が人それぞれに違います。

「多様な価値観」とは、「安心安全・快適便利」の上に成り立っているのです。

命の危険を感じず生存コストが下がった今、多様性が広がっていくのは当然といえば当然です。

 

国や企業がピラミッド型の中央集権を維持できなくなっているのはここも深く関係しています。

幸福と自由を追い求めるには単位が大きすぎるし、窮屈だからです。

 

 

そうなるとインターネットを使って情報交換や価値観の共有をし、緩やかに繋がりお互いの幸福と自由を追い求める集団がどんどん生まれてきます。

 

小さな会社やチーム、コミュニティやサロンがたくさん生まれ、その中での価値交換が始まりました。

それはまるで、車輪が生まれる前の村や群れのようにです。

 

 

 

話を少し戻します。

 

「お金が余っている」というのは言い換えると、生存に関わる価値は足りているということです。

衣食住、安心安全はほぼ確保されている状態です。

 

「お金の価値が下がっている(相対的に必要とされない)」ということは、時間が余ってくるということです。

AIによる労働からの開放だとか言われてるのはそういう話です。

 

 

「いやいや、時間なんて余ってないよ、忙しいよ。」って話もあるかと思います。

色んな状況がありますが、「限定品」や「〇〇も愛用」、「新製品」を真に受けていると時間はどんどん奪われていきます。

絶対価値と相対価値を見極めるべきです。

 

 

いやいや、十分に食べていない子供も身近にいるし、生活に困っている人もいるよと思うかもしれません。

でもそれは「ない」のではなく、「届いていない」んです。

 

「お腹空いたなぁ」と思う人の隣のマンションで食べ物が捨てられたりしています。

まだ乗れる車を廃車にしたその横で、オートローンの契約が成立したりしています。

 

 

インターネットによって物事や情報で溢れかえった時代、通貨によって関係性は分断されました。

生活は快適便利になり、生存コストも下がり、お金の価値が下がり、結果、時間が余っていきます。

 

 

じゃあ、その「時間」を何に使うのか。

 

 

 

 

僕は「緩やかに閉じた世界」を作り、そこに使おうと思っています。

通貨によって分断された関係性を取り戻し、信頼のもとに価値交換をする。

 

もちろんインターネットも併用します。

もちろん通貨も選択肢のひとつです。

 

ただ、顔が見えて言葉が通じ、信頼や信用の関係性が保たれる範囲。

 

 

 

 

「ダンバー数」という単位があります。

ロビン・ダンバーさんが提唱した「人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限」です。

 

 

その数は、150人。

諸説ありますが、一般的にはこの数字を用います。

 

 

本家、PEACOCK64のブログ投稿1記事のアクセスがだいたいこの150あたりです。

そしてこの「一生懸命を笑え」の1投稿のアクセスがだいたい30くらい。

 

 

ダンバー数とパレートの法則(8:2の法則)を掛け合わせると、コアな20%が30人になります。

 

こんな意味不明の長文をここまで読んでくれているアナタのことです 笑

 

 

 

緩やかに繋がる150人で関係性を築き、信用信頼で価値交換をしながら暮らす。

このためにそれぞれが余った時間を使う。

コアな30人はまたそれぞれに繋がりを作っていく。

 

 

それは僕が寄り好む150人ではなく、価値観や考え方が近かったり興味関心を寄せ合うコミュニティ。

 

幸福と自由はそこから生まれると思っています。

 

 

 

これは僕が独自に考えているというよりも、こういう時代になってきそうだから、今のうちに作戦を考えておこうって話です。

 

ネットに頼らないお店、ネットで緩やかに繋がる仲間、車輪で運べる価値交換、流出しない通貨、完全に閉じた世界、緩やかに閉じた世界、言いたいことが言える場所や、助け合う暮らしの修繕コミュニティ、地域の機能、頼みやすい関係性。

 

一生懸命を笑い合える世界。

 

 

オリンピックだ万博だと言われてますが、この3〜5年くらいで時代は大きく変わると感じています。

面白いなと思いつつも、しっかり考えて動かないと危ないなとも思っていて。

 

 

今、その作戦を練っているところです。

じわじわと始めていることもあります。

頭の中にはいくつも計画があり、仮説を立てながら論考しています。

 

 

2年後、そして3〜5年後。

風向きや潮流をじっくりと観察しながら、仕掛けていきたいと思っています。

 

 

 

僕は学者じゃないのできちんと調べたわけでもないけど、そこまでデタラメではないんじゃないかな。

 

極端に世界が変わることはないけれど、いろんな角度のボールを打てるようになっておきたいと思ってるんですよね。

今までの時代が単一的すぎたので。

 

 

こういう話すると宗教的だと言われることもあるけれど、ほとんどの人が「宗教」という言葉から連想するイメージ(日本では新興宗教やカルトの意味合いが強い)で考えてしまうので、いつもピントが少しずれます。

 

 

ものすごく簡単にまとめると、「生きていくのに必要なものは身近に出揃ってるから、仲間で融通しあえば大丈夫。足りない部分は生み出せばいいし、余った時間は信頼を育むことに費やした方がいい」っていう話。

 

明日からやるぞ!ってわけじゃないけれど、僕は今こんなことを考えています。

 

 

 

2019年4月11日、亜論茶論にて。