野生


 

こないだ、中学の時の同級生と偶然会ったんですよ。

で、「いつも見てるよ〜、”一生懸命を笑え”」って言われてね。

 

 

「え、なんで??」

ほんとにたまにしか会わないので、どうやって辿り着いたんだろうと聞いてみると、「mixiのプロフィールからフェイスブックに飛べるからさ」って聞いて。

 

 

わー、mixi懐かしいなと思ってほんとにひさびさにログイン。

5〜6年ぶりくらいじゃないかな。

 

 

たしかに各種SNSにはリンク貼っていて飛べるようにはなっているんだけれど、自分のプロフィールとかは当時のままで。

 

 

その内容があまりにも今の自分の理想に近すぎてびっくりしました。

 

「一周回る」ってほんとにこのことなんじゃないかと。

 

 

 

それがこれね。

 

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こんにちは。

小さな町で喫茶店をやっています。
1日の半分を店で過ごし、
そのまた半分は寝ていて、
あとの半分は
ご飯食べたり、
本読んだり、
日記書いたり、
テレビ見たり、
誰かと話をしたり、
考え事したり、
買い物したり、
ケーキ焼いたり、
料理したり、
子供達と戯れたり、
カブいじったり、
ラシーン乗り回したり、
BMXで飛んだり跳ねたり、
スケボー乗ったり、
ペンキ塗ったり、
木を切ったり削ったり、
ギター弾いたり、
ドラム叩いたり、
カホン叩いたり、
ウクレレったり、
ロジったり、
ノブコでパンクしたり、
歌ったり踊ったり、
浮かれたり沈んだり、
ラジバ…

たまに遊びに出かけたりします。
今の暮らしに、不満も問題もないです。

No problem. it’s Wonderful Life !!

 

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小さな世界というかシンプルな暮らしというか。

 

ここ最近の僕のテーマでもある「身の丈」にすごく近いものがあって、当時は今ほどネット環境も良くないし、SNSで常時繋がっていることもなかったし、情報もそんなに多くはなかったと思う。

 

でも、この自分が書いた暮らしの様子を見てすごく羨ましく思えたし、このくらいのサイズの暮らしと今の僕が感じている豊かさを掛け合わせることができたなら最高なんじゃないかと思ったんですよね。

 

 

 

もちろん時代の恩恵はふんだんに受けているし、こうやって書いた文章の反応が即座に得られるのも通信環境やインフラのおかげです。

 

 

一方でひと一人が処理できる情報量は余裕で超えちゃっていて、信用できるのか出来ないのかを見極めるその道具ですら信用できないような状況。

 

 

 

自分が見聞きしたこと、目の前で起こっていること。

本来なら、「信じることができる」のはこの部分だけです。

 

 

僕らホモ・サピエンスは”認知革命”という「虚構を信じる能力」を得たことで爆発的に繁栄することができたんだけれど、それは「神話」や「物語」や「噂」を信じ、共通の価値観として共有できたからなんです。

 

でもある意味でそれは今、完全に逆手に取られて(というか取り合いになっていて)、一体誰の何を信じて良いのか…という状況になっています。

 

「すごい!」という噂を聞いただけでそう思っちゃうし、「みんな持ってる」ことは確認できないのに本当にそう思っちゃう。

 

 

「野生」というか、自分の経験や見識で判断する能力が衰えているんだなぁと。

 

 

 

「判断する」ということは、「決める」ということ。

 

「決める」ということは、他の何かを「捨てる」ということ。

 

「する」ということは、「しない」ということです。

 

 

 

誰の何に頼るんじゃなくって、自分の野生に問いかける。

 

自分自身が自分の手で確かに触れることができる世界でその感触を感じ、必要ならば選び取り、信用できなければ距離を置く。

 

そうやって取捨選択していくことこそが「世界」であり「価値観」であるように思います。

 

 

世間一般で言う「世界」や「価値観」は作られた虚構です。

「みんな」とか「常識」と同じ、大勢をまとめ上げるために作られた都合の良い言葉。

 

 

 

あの頃の僕はたしかに小さな世界で生きていたけれど、実感というか感触があった。

 

言い換えれば、忠実に生きていました。

 

 

 

 

自分の感触と野生で世間をよく見聞きし、必要な分だけを選びとっていく。

そしてそれを信頼できる仲間と分かちあっていく。

 

 

そう。

この世の全ては目の前で起こるんです。