イン・ザ・フライト

【 ※書き終わってからまだ10年経っていないことに気づいたけど、もうそのままでええかと2500文字を置いておく 】

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2016年は本当に人生の第2幕というか(何幕目かはわからないけど)、新しいステージが始まっていたんだなと今になって思う。当時はもうがむしゃらでそんな俯瞰はできなかったけど、あれから10年たって振り返ってみた。

単なる地元喫茶店の後取り息子だった僕が市民活動を始め、イベントを企画し、コミュニティをつくり、地元の担い手になる10年間、本当にいろいろなことがあった。「あれがなかったらこうはなっていなかったな」とか「この人と出会ってなかったらどうなっていたんだろうか」とか。

まぁ、人生なんてほとんどがそうだろうし僕に限ったことではなく。

複線が存在しない人生のなかで現在を正解だと思えるかどうか、正解にできる気概があるかどうかじゃないかとも思う。

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自分のこども達との遊びをまちで披露しようと「豊中こどもれもねいど」を始めたのが2016年、今これを読んでいるほとんどの人がその派生のなかで繋がった人じゃないかと思うけど、あれを皮切りに僕の世界は広がっていった。

こども達も今や中高生。生徒会や柔道に励み、楽しく学生生活を送っている。

そこから気の合う仲間と理想を掲げ、穏やかなカルチャーを育んでいた2018年頃。

「くじゃく町」なるオンラインまちづくりに奔走し、地域通貨や実験的な企画を連発していた矢先にコロナが来た。「濃厚接触、ソーシャルディスタンス」と連日連呼で疲弊していた僕らに、地元服部の駅前再開発の話題が飛び込んできたのは渡りに船というか新しい発見もあった。

似かよった価値観や文化的背景を持つ人たちとオンラインコミュニティをつくろうとした「くじゃく町」の対極にある、「家が近所」というだけで多世代が協力して地元を治めていく地域自治組織。自分が生まれ育った小学校区で地域の長たちが奮闘している姿を見て、自分の構想とも重なる部分があった。

そこから「生活協同組合」とか「講」のような互助の関係を「もっとポップに」できるんじゃないかと思って、2022年にローカルライフファンクラブ「ハットリー!」を作った。

「くじゃく町」というソフトを「地域自治組織」というハードに乗っけてみるという壮大な構想。

でもそれが今のところ一番しっくりくる答えだと思っている。

2025年にはその構想をわかりやすく事例にした「はっとりエンナーレ!」を開催し、僕のなかでもイメージが具体化したイベントだった。

きっとこの筋でいける!と確信に変わった。

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「10年前はさぁ」なんて簡単に言うけれど、それは1秒が連続して繋がった「長さ」でしかなく、長さ自体は何の意味も持たない。

その点と線の連続のなかで「何が起きて(起こして)」、そこから「自分にどう影響したか」がそれぞれの現在をつくっている。

そして、その現在に「どう意味付けするか」も自分の匙加減で何とでもなる。

自分の10年を振り返った時、良くも悪くも全てが今に繋がっていて純度というか濃度というか、極まっている感じがする。

程よいスケールで風呂敷を広げ、よきタイミングで畳んでこれたと思う。

今はとても身軽で自由で、一昔前のような「キャラ疲れ」もほとんどしなくなった。

やっぱりそれなりの(社会的)期待は必要だと思うし、それに応える器量も大事。そう思えるのは年を取って落ち着いたのだろうか。

簡単に言えば「余裕がある」ということなのだろうけど、その余裕にあてがう沸々とした欲も出てきた。

(本当はもっとのんびりしたいんだけど、どうやらそういう気性ではないらしい)

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この10年、やっぱり自分がすごく「外」に向いていたのだと思った。

もちろん好んでそうしてきたのだしそれで獲得したものもたくさんある。

それが今の自分を活かしていると言ってもいい。

ただ、内外のバランスを少しずつチューニングしてきたこの数ヵ月、映画や文章や音楽に意識的に触れたりする中で物事への興味が「表現」や「内観」に移り、ひとりで過ごす時間も増えた。

自分の感覚や感性をもう少し丁寧に観察したいとも思っているし、それを精巧に組み合わせた作品のような表現をしたいとも思う。

外からの情報を集めて編集し、わかりやすい言葉で形にするのは得意だし、これまでやり込んできた手法だけれど、「編集」の対象が外ではなく内というか。

今こうやって取り留めのない文章を叩いているのも感覚的には上の話に近い。

事例について語ったり所感を綴るのではなく、日常を送る中で響いた音の余韻や倍音に耳を傾けて、それを忠実に掬い取りたい。

人にどう伝わるかよりも、自分に響くものであるかどうかを大切にしたい。

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次の10年を僕は今、そういう風に想像している。

中年の余裕なんてあまり興味なくて、でんと構えるなんて性に合わないし、いつも渇望というか「もう少しこうであればな、」というのを内にも外にも向けていたい。

僕の原動力はいつだってそうなのだと思う。

こないだお盆で実家に帰った時、ひさしぶりに椅子に座って母と話した。

店の経営のこと、子供の学費のこと、貯蓄のことや、お互いの健康のこと、先々将来のこと。

最近はあまり頻繁には会わないし、向かい合って話すこともなかったのであれこれ質問責めにあったんだけど、母は親心で心配しているらしかった。

特に現実的なお金や健康についてとか。

その中で母は何度か、「あなたには理想があるから難しいとは思うけど」と前置きをした。現実的な話をする前にその言葉を添える優しさが嬉しかったし、この人には敵わないなとも思った。

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竹原ピストルの歌のなかに、「暮らしづらいのは大丈夫、夢があるからさ(東京一年生)」という一節がある。

まんまひっくり返せば、「夢さえ諦めてしまえば暮らしやすくなる」ということだ。

実際、理想があるから現実があるのだし、現実の輪郭を際立たせるのも理想との差分だと思う。月に行きたいと思ったから、月に行けたのだ。

相変わらず次の10年も日常の煩わしさや違和感や焦燥を動力にして暮らしていきたい。親の心配を横目に見つつ、理想を掲げて現実を生きる。

生きづらさを感じているうちは大丈夫。

僕の目は死なない。

2025年8月、10年目の静かな夜に。

追伸、あなたの10年はどうだったろうか?