優しさで食っていけるのか


 

「はかり」ができて、僕らは重さに見当をつけることができなくなってしまった。

 

「定規」があることで、長さについて鈍感になってしまった。

 

僕らは1日の長さを「時計」でしかはかることができなくなってしまった。

 

 

「尺度」はとても便利だけれど、それに慣れてしまうと「数値化できるもの」でしか判断できなくなる。

 

感じることが難しくなる。

 

 

 

「お金」も、価値をはかる尺度として機能しているわけだけれど、逆にいえば「お金に換算にしくい価値」や「お金に換算されない価値」については、「価値がない(はかりようがない)」とされてしまいがちであるように思うんです。

 

 

 

たとえば、優しさ。

 

それ自体は価値があるものなのに、数値化されにくいものなので「それだけじゃねぇ。」で終わってしまう。

 

 

「優しい」という価値で食っていこうと思えば(優しいままでいようと思えば)、「優しい店主のパン屋さん」であったり、「優しい人が作った家具」というような、「職業」を介さなくっちゃ食っていけない。

 

だいたいの場合が食べ物を手に入れるのには「お金」が必要で、お金を手に入れるためには「職業」が必要で、たとえ優しい人であろうが「○○屋さん」にならないとお金に変わらないんです。

 

 

 

 

でもこれだけ情報や物が溢れて、必要な職業が蔓延している社会になると「競争」が生まれます。

 

結果、必要以上の価値が生産されて、それを消費させるために情報で煽る。

「みんな言ってる」とか「まだ食べてないの?」とか「マストアイテム!」とかね。

 

 

 

 

僕らのマストアイテムは「水」です。

 

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優しいパン屋さんはまず、「パン」競争で優位に立たなくちゃいけない。

量や質や価格や情報で、他のパン屋さんを横目に見ながら走らなくちゃならないんです。

 

 

そして「お金」は流通の総量が決まっているので、「分け合う」から「取り合う」になってきました。

価値を保存できるが故に。

 

 

 

 

場合によっちゃ、まっすぐな優しさが仇になったりもするわけです。

優しさですら、数値化・規格化しないと価値として認められない。

 

 

というか、その価値をそのまま認識できる人の数が減ってしまったんです。

僕らが生み出した便利な「尺度」によって。

 

 

 

 

 

優しい人が優しいまま、食っていこうと思えば。

 

 

「自分の食べるものを自分で作る」ことなのかなぁと思う。

 

 

 

畑でせっせと野菜を作ったり。

 

たくさん採れた時は、近しい人におすそ分けして。

 

 

 

その優しい、ほんわかとした雰囲気に包まれたい人たちが寄り添って暮らして、野菜や仕事を交換しながら満たしあっていけば。

 

 

 

優しい人は「優しさ」で食っていけるんじゃないだろうか。

 

 

 

経済のほんとのほんとのはじまりは、そういうことだったんじゃないかって、思う。